今日は、東京駅へ

 今年の10月後半は、いろいろな予定があったのだが、次々に変更になった。今日は本来ならわたしが人を見送るため東京駅に行く日だったが、その見送る予定がなくなった。することがないがどうしようかと思ったものの「そうか、別に誰かを見送らないでいいのだから、ただ東京駅に行こう」と。

 駅に到着し、グランスタや京葉ストリートなどをちらりと見て、いったん改札を出て東京駅一番街や大丸を見て、また改札内にもどる(←エキナカでだけ買い物をして改札を出ずに元の駅にもどれば、見つかったときに問題になる)。
 そして東京駅構内で少しだけ買い物をして、そのままJR高円寺駅にもどってきた。

 3時間弱の外出だったが、ポケモンgoもピクミン・ブルームもそこそこできたし、ひさびさに東京駅を歩けて楽しかった。

 駅弁を買おうかと思ったのだが、買いたいと思うものもなく、そして淡路屋の「引っぱりだこ飯」が記憶よりも高価になっていたことで手が出ず、普段から東京駅で買っていたいなり寿司や、神戸牛ミートパイなどを買った。

 それにしても、駅弁というのは味が濃くできているはずなので(数時間〜半日以上も常温で販売したり持ち歩いたりするのが前提のため)、よく考えたら高齢に片足を突っこみつつある年代としては、あまり大量または頻繁に食べるののではない。ひとつを分割しておかずのようにしながら、何か味の薄いものと一緒に食べたほうがいいだろうと思う。

 同じような具材で冷蔵または冷凍商品にして販売したほうが、味を濃くしなくても少し長持ちするし、健康的にもいいのではないだろうかと、情緒のないことを考えてみる。

チェコ語を開始

 Duolingoで8カ国語目のチェコ語に着手。ポーランド語に何ヶ月も苦戦してきたおかげで、初級のあたりはほんとうに楽ができる。似ているし、むしろわかりやすい。これはわたしがDuolingoに慣れてきたからなのか、あるいはチェコ語の問題作成を担当している方々が優秀なのかは、まだよくわからない。

 ポーランド語と語彙が似ているのにスペリングが良心的で、素人でもなんとなく頭にはいる。だから入力しろと言われても、お手本を見ながらなんとなく打てることが多い。ポーランド語はいまだに音声入力でAIに候補を提示してもらって選ぶか、あるいはパソコン画面で確認してからそれをiPhoneでコピペする。手では打てない。

 Duolingoで新しい言語を開始すると、初級のころはほんとうにポンポンと点が取れて、リーグでもすぐ上位に行ける。現在やってきた7カ国語はそれなりに難しい場所にさしかかっているため、時間はかかっても努力の割に点が取れないのだが、新しい言語ではたちまち得点と成果に結びつくので、はまってしまう。

 チェコ語もある程度の場所まで行ったら、おそらくまた点が取れなくて行き詰まるのだろう。そのときはどの言語にしようかと、いまから楽しみにしている。

食品フロアは単独が望ましい

 今日、念願の新宿小田急に出かけた。実際にはつい先日まで「ハルク」と呼ばれていた別館だが、小田急の本館が閉じることになったので、そちらに無理に本館が居候することになったのだ。狭いところに、ぎゅっと入れられたのだろうなと、想像しながら出かけた。

 最初からハルク地下の食品売り場にあったカルディや明治屋は立場が強いのか、売り場面積も削られずにそのまま奮闘していたが、ほかはなかなかの詰め込みであった。小田急本館は食品売り場を大改装してまだ12〜13年くらいだったのではないかと思うが、その当時からひしめき合っていた売り場がハルクの地下2階部分に収まりきるはずもなく、化粧品などがある地下1階にも和洋菓子などの売り場が移動。どれもかなり狭くなっているように感じられ、しかも「化粧品と食べ物が同じフロアか」という思いが否めなかった。

 ある程度の空間がある建物ならば、服飾品や化粧品と同じフロアに和洋菓子がある事例も存在するが(地下鉄の上野広小路駅に直結の松坂屋、東武線の浅草駅に直結の松屋など)どちらの場合も広さと風通しがあるので、それほどには匂いに影響はない。だができれば避けてほしい。

 気にしすぎていたせいか、今日の小田急は店内での匂いの混在と、各店の売り場で狭さが気になった。売り場の大きさで変動がなかった店もあるはずだが、かつての本館でゆったりと大きなショーケースを構えていた店たちは、そうした面影もなく簡素化。フロアのそうした一画からは、デパートらしさというのか、心の贅沢のようなものが、残念ながら失われた気がした。
(むろん、これまでの小田急本館食品売り場をご存知ない、もしくは思い入れのない人には、影響のない話ではある)

 小田急の本館跡地には、都庁以上の高さのビルが建つそうだ。その中に小田急が入店するかどうかは不明だが、できれば食品売り場は、そこにも存在してほしい。わたしにとって「見ているだけでも楽しかったあの活気ある遊園地」を、ふたたび目にしたい気分である。

とんかつを買いに

 数日前からとんかつが食べたかったのだが、揚げるだけの冷凍商品が多く普及しているコロッケ程度ならまだしも、とんかつとなると、肉を買ってきて自分で揚げるのはたいへんである。

 以前は高円寺駅北口方向(早稲田通りにつきあたる少し前)に「新宿さぼてん」があったのだが、閉店してしまった。あの店は好きだったし、便利だったので残念だ。

 さらにもっと時代を遡ると、やはり北口の、現在ココカラファインがはいっている建物の上には、こぢんまりした喫茶店や、有名な「とんき」があった。ときおり食べに出かけた。

 阿佐ヶ谷の駅ビルには以前「和幸」売店があったが、これもだいぶ前に、リニューアル工事の際に閉店。

 現在は中野マルイの上に「さぼてん」があるのだが、これは気軽に持ち帰る売店スタイルではなくて飲食店である(持ち帰りはできるだろうがレストランのフロアに出かけて持ち帰りというのも面倒だ)。

 つまり「気軽にとんかつが買えない」と思ったのだが…よく考えたら西武新宿線の鷺ノ宮駅北口に、さぼてんがあったことを思い出した。持ち帰りのみの売店スタイルだがメニューは豊富だったような記憶。隣の唐揚げ屋(福のから)はよく買うが、さぼてんは初めてかもしれない。

 さっそく散歩がてら鷺宮へ。昼食時なら弁当または丼を買ってもよかったが、夕方である。わが家は夜は弁当類などのガッツリ系を食べないので、カツのみを買って帰った。

 さぼてんの弁当はどれも好きだし、さらにはひれかつ丼などの、卵でとじたものも好きである。今度はそういうものを買ってみよう。

 帰りは新青梅街道から都立家政駅に出て、その周辺でまた買い物をして帰宅。ピクミンブルームもけっこうな歩数となり、花植えも進んだ。

「山河」を考えた半日

 昨日、たまたま日系アメリカ人の方からロサンゼルスの和菓子店「風月堂」について教えてもらい、その和菓子店の話のみならず、100年以上もつづいている日系人の小売店と、アメリカでの日系人社会に関する思いを新たにした。

 日系人には日本に複雑な思いをいだいて暮らしている人も(全員ではないが)いるはずだ。

 たとえば第二次大戦のとき日系人は、子世代ならばとくに生まれが米国であり市民権を持っていたにもかかわらず、家族らとともに強制収容所に入れられた。そうした差別や戦後もつづいた苦労から、日系人という自らの立場を米国社会に希釈させていくかのごとく、日本人や日系人以外と婚姻して家庭を持つ人も多いらしい。
 日本人に混じればアメリカ人と言われ、アメリカの中では日系人として扱われることもあり、落ちつかない気持ちになることもあるはずだが、そういった方法でアメリカ社会内部に溶けこむ(薄まっていく)ことを選んだ人もいるのだろう。

 そんなことを考えていたら「山崎豊子が原作の80年代のドラマ(日系アメリカ人の戦中戦後を中心に描いた作品)は、なぜに『山河燃ゆ』というタイトルだったのか」と、気になってしまった。
 検索してみたが、もともとは原作の通りに「二つの祖国(Wikipedia)」で話が進んでいたようだが、米国の日系人らからタイトルへの不快感や抗議が寄せられたことによる変更であったようだ。

 そこで「山河とは、杜甫の春望に出てくるあの『国破れて山河あり』だろうか」へと、検索対象が飛んだ。春望については、こちらに解説がある → マナペディア: 杜甫 『春望』の書き下し文と現代語 (五言律詩・対句の解説)

 戦によって何もかも失われても、山と川はあった——という五言律詩(5文字 x 8行の詩)である。

 つまり「二つの祖国」に代わって、「戦で何もかもなくなり、山や川すらも燃え尽きて跡形がないほどだ」という意味合いの作品名を選んだということなのだろうか。それともほかに何か参考にすべき表現があるのか。いまのところは思いつかない。

 そんなことを考えながら、ついでに「山崎豊子の本やそれを原作にしたドラマは重厚だな」と思い出していた。そういえば80年代は日系アメリカ人や歴史的に有名な国際結婚を題材にした話が多かったよな、などと、ドラマ「オレゴンから愛」まで思い出しつつ、時間を過ごした。

 すると半日ほどして、今度は別件で、漢詩について質問がやってきた。

 漢字が長く表示されている写真が添付され「これは文章か、詩か」という内容だったが、5文字単位で4行ならば「五言絶句」というんだよと、半日前まで忘れていた内容をさもずっと覚えていたかのごとく、どや顔で返事をした。

 こんな風に、関係のないことを調べていたつもりでも、なぜかすとんと落ちついて1日が終わるようなことが、たまにある。そして何やらよい日だったように感じる。

 明日もいい日でありますように。

匿名配送を体験

 先日のことだが、Yahoo! Japanのトップページで「クーポンがあります」と表示されたので、何気なくクリックしたところ「PayPayフリマで1110円分のクーポンです」という。そこで、200gでメール便配送料金込みのコーヒー(ブルーマウンテン)を、約1000円で購入した。

 そのときはクロネコの配送(ポストに入れるタイプ)だったが、先方は郵便番号程度の情報で、こちらについてもクロネコ側で貼ったであろう住所シールがあったのみ。おそらく発送元はわたしの住所を知らないまま、取引が完了したのだろう。

 そしてその直後、PayPayフリマから「15%引き」というクーポンが来たので、バブ(入浴剤)を各種とりまぜて40個で1400円くらい(クーポンがあるので実質は1200円弱)というものを注文した。今度は日本郵便だったが、そちらも先方の住所詳細などはわからず、おそらくわたしの住所も、日本郵便側が貼ったのであろうシールで到着した。

 これはけっこう、気楽でいい。

 20年くらい前ならば「手渡し」などもオンラインのフリマでは選択肢として存在したが、現在ではそれはちょっと危険すぎる。それにいつも匿名同士ならば、2回目以降は個人間で取引ということもなく、つねにシステムを利用してもらえるわけだから、サービス提供側としても安心なのではないだろうか。

外国為替とネット上の会費

 参加から200日を超え、語学学習サービスDuolingoを、いよいよ有料にすることにした。さんざん迷ったが、背中を押したのが日本円での価格だ。どうやらこのご時世でも1ドル100円で計算しているらしい。ご存知の通り現在は145円以上で前後している。それでもレートが100円。いつDuolingoの気が変わるかわからないので、1年分を申し込んでおくことにした。

 日本人は利用者が多そうなので、あまり機敏に為替変動に合わせても、利用者がかえって減ってしまい総売上で損をするかも……と思っているのであればありがたい。
 ちなみにわたし自身も、もし来年の更新時に費用を正確な為替レートで払えと言われたら更新が難しいかと思うが、現在なら13200円なのだ(複数で利用できるファミリー会員の額、おそらく米ドル120ドル)。まだ引き落としは先だが、申込時にそう表示されていたので引き落としまでに値上がりすることはないはず。

 現在は2週間の無料期間だが、支払ったその後に1年経ったら、また引き落としがある。そのとき一気に1.5倍などになっていたら目も当てられないが、そのときはもう飽きているかもしれないしし、そのときに考えたい。

 かつてiOSでアプリを買ったりギガ容量を追加すると、最低単価は100円か110円くらいだったように思う。だが数年前に130円に設定された。為替変動に配慮したのだろうが、現在の円安でAppleがまた料金を上げてくる可能性はある。頭が痛い。

新宿に遊びに行くつもりが

 小田急本館が解体予定となり、小田急ハルク内部にぎっしり小田急食品売り場が移動したとあっては、わたしとしてはなんとしても見に行かねばと、今日は予定を立てていた。家族も乗り気で、昼過ぎに出かけようかと相談していたのだが。

 わたしが、バテた。
 見事に、動けなくなった。

 あとになってみれば数年前までは10月ころになると起こしていた体調不良だったのだが、この数年なかったのでそれを忘れてしまい「いったいどうしたんだ、風邪か、食中毒か、またもやコロナか、まさか持病関連ではないだろうな」と、気持ちがパニック。だが体を温めて横になってみると「ああ、前によくあった、足湯か暖房で足首を温めるとおさまるアレか」…と。

 体はふらつく、胃はムカムカする、過度ではないがそこそこ腹を下す。なぜか足首を万全に温めると治るのだ。

 思い出すまでのあいだは「ああ、人間は年を取ると不安になって、あれこれ疑心暗鬼になり、こういう状況でツボ売りが来ると騙されるんだよな」などなど、不安になりながらも考えていたのだが、それで済んでよかった。数時間で復調。ねんのために外出は控えて家にいた。明日は近所くらいなら歩けるだろう。

 そういえば東急吉祥寺にワークマン女子と3coinsが入店したというので、そちらにも出かけたい。
 また、なぜかユーハイム商品を買うときには荻窪ルミネのユーハイムが好きなので、荻窪も出かけたいところだが、そうそう外出もままならない。どこかのユーハイムで焼き菓子を調達したいのだが、どこにしよう。

 来週は後半に東京駅に遊びに行けるはずなので、それだけはなんとしても予定を守りたい。

かつて「ウェディング・バンケット」という映画があった

 アメリカで暮らす台湾系の若者たちを描く映画で、1993年ころの作品。わたしは映画館ではなくテレビまたはレンタルなどで見たのだと思う。夜中にひとりで見た記憶だけが残っている。

 台湾の家族に自分が同性愛者だと打ち明けられず、ルームメイトの白人男性がほんとうは恋人だと言えないまま、結婚をせかされる男性。同じくアメリカで、事情があって偽装結婚を望んでいる女性がいるとわかり、形ばかりの結婚をすることになるが——。

 サクサクと届け出をして「ハイ終わり」のはずが、台湾から両親がやってきてしまい、しかも正式な結婚式を望んでいることがわかって、さあたいへん…という話である。

(画像はAmazonから)

 どこの土地でも、いつの時代でも、親にはわかってもらえないからと事実が言えない若者は存在する。この映画では、同居の白人男性(部屋を貸しているオーナーという設定になっている)が、偽装結婚が終われば普通の暮らしにもどれると思っていたのに、中国語しか理解しない夫婦(花婿の両親)と短期間とはいえ同居になったストレス、そして文化の違いで自分が蚊帳の外に置かれてしまいがちな状況に、ついにぶち切れるシーンも。

 とくに「悪い人」というのは出てこなくて、話の軸にあるのは「打ち明けたら親が可哀想」というジレンマなのだ。

 終わり方がいいので、DVDなどで見ることができそうなら、ぜひおすすめしたい。

 これをなぜ思い出したかというと、自分の親や周囲の親世代の人たちに、「意見を言っても仕方ない、疲れるだけ」と思ってしまったり、ほんとうは違うと思っているし相手に腹が立っていても「そのうちいなくなる世代に、いまわたしが意見して嫌な思いをさせても」と思ってしまうなど、そんな経験が増えてきたからだ。

 ほんとうは怒ったほうがいいこと、怒らなければなめられることに対して、「感情をあらわにすると何かされる」という思いが染みついている世代(とくに女性)は、こちらが怒れば「しーっ」やら「怒るものじゃないよ」と言うのだが、それがほんとうにこちらの神経に障ってしまい「あなたたちの世代はそうしないといけなかったのかもしれないけれど、こちらについてまでとやかく言わないでくれ」と、気持ちがもやもやして、爆発しそうになる。
 そして、時代が違ったのだから理不尽だとはわかっていても「あなたたちの世代がもっと言いたいことを言ってくれていたら、いまはもっとよかったはず」とすら、思ってしまうことも。

 言えないことのあれこれ。ほんとうに親世代が世の中から消えるころ、わたしは自由になれるのか、それともまだ気持ちが縛られつづけるのか、わたしにはわからない。

 ただ、自分は誰かに「しーっ」を言わない人間でありたいと、それだけは考えている。
 怒るべきときは、たしかにあるのだ。

短歌が人気らしい

 今日、Facebookで素朴な表現を見つけて、俵万智の「サラダ記念日」を思い出した。わたしにも才能があったらよかったとつくづく思うが、自分が詠みたいことが自然にこみあげてくる場合ならばともかく、短歌を生み出せる人そのものに憧れるというのは、スタート地点からして違うのだろう。

 俳句や短歌を投稿し、閲覧できるアプリも何種類かあって、人気なのだとか。

 高校生のころ、百人一首はすべて暗記したのだが、いまではすべて言葉にできるのは五首程度だろうか。上の句、下の句のどちらかだけを覚えているものがあり、うっかりすると混ぜてしまいそうになる。

 好きであり、すぐに口から出てくるのは、たとえば以下:
 ○ 瀬を早(はや)み 岩にせかるる 滝川(たきがは)の / われても末(すゑ)に 逢はむとぞ思ふ
 ○ 逢ひ見ての のちの心に くらぶれば / 昔はものを 思はざりけり

 こちらはもう、定番中の定番。それに現代にも通じる。
 ○ ひさかたの 光のどけき 春の日に / 静心(しづごころ)なく 花の散るらむ

 さて、気分がつい塞ぎがちになってしまう昨今だが、わたしも何か書きたい気分になったときは、いつでも書き留めておけるように、ゆったり気楽にかまえていたい。