「おっきなブーブー」の話

 朝のうちまで雨が降っていた。外階段の掃除は小雨のときにやると楽で、以前から昼間に雨が降るのを待っていたはずがうっかりして、午後遅くになって「あー、階段はもう乾いてしまったか?」と見にいってみた。かなり乾いていた。だが思いついたときにやるのがいいだろうと、大きめペットボトルに何本分も水を溜めて玄関に移動。道までの外階段を、ブラシで掃除。

 それほど大きな道ではないのだが、時間帯によっては、いろいろな人が通る。自家用車は朝晩に通るのだろうが、昼間は配達の車が多い。あいまに学校帰りの子供たちが通ったり、ご近所を歩く地元の方々の姿も。
 さらには、いつも謎に思っていた「うちの前で1分程度の短い時間だけ、大きな声で語り合う人たち」も、ああ、こういう人たちだったのかと見当をつけることができた——。どうやら、もう少し進むと道が分かれるため、その手前のわが家界隈で自転車に乗ったまま挨拶を兼ねて語り合い(その声が大きい)、そのあと道が分かれるところで「ではまたーっ」と言ったあと、静かになるらしい。今回はわたしが階段の掃除をしていたためか、あまり長く語り合わずに去ったが、おそらくこういう人たちが何組かいるのだろう。

 そして最後に、大きめの声の子供がやってきた。祖父らしい人と一緒だ。わが家の近くにある新築工事現場を、何度も、何度も、行き来しては中を見ている。関係者なのかと思ったら、そうではなかった。
 祖父が話しかけているのが聞こえた。
「今日はもう、終わっちゃったんだね。朝は、おっきなブーブー(重機のことらしい)が来ていたんだよ」
 子供がそれを聞いて「おっきなブーブー」と復唱している。
「残念だね、また次に、来てみようね」
「おっきなブーブーッ♪」

 …あれを見て楽しい人がいるとは知らなかった。うるさいだけで、振動が怖いと思っていたが、そういう楽しみ方があるのかと、気持ちが少し新鮮になった。

 今回は雨の直後でなかったため、ペットボトルの水では完璧な掃除にはならなかったが、次回こそ、雨が上がる間際にでも、掃除してみようと思う。そのときまたなにか発見があるかもしれない。

このご時世に、付け替えがない

 今年の1月下旬ころから「激落ちくん」という商品で浴室の壁を洗っているのだが、化繊のブラシ部分がだいぶ減ってきたので、そこだけ買えるのかと思って検索してみたところ、Yodobashiのコメントらんに「ない」と書かれていた。けっこうショックである。柄まで一緒に買えと? しかも(掃除の頻度にもよるだろうが)数ヶ月で必要になるのに、柄まで買えと?

(画像は楽天のマツキヨから)

 先端部分のブラシだけ変えられるようにすると、他者の市販品と互換性が出来てしまうとでも考えているのだろうか。馬鹿げている。柄まで買い直したらゴミが増える。

 というわけで、今回はとりあえず急いでいたためショートタイプを買い直ししたが、今後については柄を買わずに済む他社製品に乗り換えてもいい。せっかく使いよかったと思うが、残念だ。

今年も梅酒を仕込む

 そろそろかと思っていたらスーパーに青梅が出たので、雑多な用途で使おうと思っていたサントリーのお手頃価格ラム酒を梅酒に回すことにして、今年の梅酒に。だいたい400gを梅酒に漬けて、残りの600gを梅シロップにした。

 ところがその翌日、去年の梅酒を飲んでみて、先日まで飲んでいたブランデーの梅酒のほうが、最近になって開封したラム酒使用より口に合ったことがわかった。そこでまたもや梅を買ってきて、普段からドライフルーツなどを漬けるために買ってあるお手頃価格のブランデーを使って、梅酒に。今回はありがたいことに500gの梅が買えたので、シロップは作らずに梅酒だけにした。

 昨秋に仕込んだカリン酒も、ブランデーとラム酒を半々でやってみて、ブランデーが飲み終わるところなのだが、こちらはラム酒のほうはどうなのだろう。近いうちに開けてみよう。

地域の在宅医療

 田舎の実母が在宅医療のお世話になっている。
 地域によって多少は違うのかもしれないが、見聞きした範囲の情報では——本人に何らかの持病があって、年をとって自力での通院が難しい、あるいは容態がしょっちゅう変わる危険性があるなどの事情があれば、ケアマネさんに相談してみるとよいらしい。そして在宅医療が認められた場合には、定期的に看護師(と医師)に訪問をしてもらえて、処方があった場合は薬剤師さんが配達に来てくれるというものだ。
 母は移動が困難ではあったが、なにか異変があると家族らに頼んですぐに病院に連れていってもらっていた。だがそれも難しいほどに(移動だけで疲れきってしまうほどに体が弱り)、このところ在宅医療でほっとしているらしい。

 もちろん、在宅医療条件に該当した場合でも、担当してくれる医療機関や看護師派遣の団体が近くになければ、対応してもらえるとはかぎらない。母の場合は、地域医療に長くたずさわる医院が家から片道数キロのところにあったことが幸いしたのかもしれない。

 看護師、医師の定期訪問のほかにも、24時間相談できる電話番号をもらっていて、相談があればまずは看護師がやってきて様子を見るか、そこで必要ならば、さらに医師も呼んでくれるそうだ。

 ありがたいことである。

風が通る雨戸があるそうだ

 毎日、夜になると「あー、蒸し暑い」と思うのだが、21世紀の東京で窓を開けて寝るわけにはいかない。おそらく地方都市でもそれは危ないのではないかと思われる。人為的な危険のほか、小虫だ子ヘビだという話になれば、落ちついて寝てもいられない。

 だが新聞のチラシに「エコ雨戸」なるものが紹介されていた。ブラインドのように少しだけ開けて、風を通すことができるらしい。内側はおそらく網戸のようにしておくのだろうが、いいな、いいな、これは気持ちよいのではないだろうか。

 チラシはもう片づけてしまったので詳細はわからないが、カタカナの「エコアマド」なら商標なのかもしれない。楽天にあった。

 次に引っ越すときには、こういうのをぜひ検討したいところだ。
 夜が暑すぎる。

「アメリカといえば、銃」

 アメリカでは、いたましいことに、学校を標的にした大量殺人が止まらない。昨日今日にはじまった話ではなく、数も被害者も増えている。今回はテキサス州で18歳の容疑者(現地で死亡)により小学校が襲われて、児童や職員が殺害された。

 こんな詩を見つけた。2016年のツイートだ。

 イギリスといえば、紅茶。
 フランスといえば、熟したブリー。
 ギリシャといえば、ずんぐりとしたオリーブの木。
 アメリカといえば、銃。

(韻を踏みながら、同じように書かれていく)

 悲しい詩だが、実感がこもっている。わたしにとっても、アメリカ本土に旅行したことのない理由のひとつが、銃犯罪だ。これまで数回しか海外旅行をしていないが、イギリス、フランス、アイルランド以外は、グアムに出かけたのみである。アメリカ本土を考えるとき、どうしても銃が頭に浮かぶ。

 日本に銃犯罪が少ないのは、違法な手段を除いては、めったなことで「買えない」という理由が大きいだろう。刀をはじめ武器に関しては、日本の国民は「所持しない」という下地ができているし、規制があるかぎり今後も従順でありつづける。
 それは何百年も前から為政者による刀狩りがあったほか、武士制度が公式にはなくなった明治以降で、所持しつづける手続きが煩雑になったこともあるだろうし、さらに戦前戦後の混乱により、家宝など芸術品を含む刀や銃器そのものが散逸してしまい、わざわざ煩雑な手続きを経て新たに似たものを入手する人が激減したことが、大きく寄与しているものと感じる。

 つまり「犯罪に使われることが多いから銃の所持をやめよう」という流れにこの数十年さらされているアメリカの国民には、江戸以前からの下地がある日本のような状況は、なかなか実現できないし、世論も形成されにくいという差がある。無理やり規制し、奪おうとすれば、かなりの抵抗が生じるはずだ。

 理想論を書いてしまえば、小さな街から「銃なし」を開始し、その範囲を拡大して「都市」、「州」に移行していって、最終的には国全体から銃をなくすという考えもあるだろうが、それには早くて数十年かかるだろう。おそらくは、もっと。

 アメリカの銃犯罪ができるだけ早く減ることを、心より願っている。

エリザベス女王には、4人のお子さん

 昨日だっただろうか。イギリスのニュース記事だったが、エリザベス女王の写真が大写しになった下に「4人のお子さん、ひ孫は12人」と見出しが出ていた。

 そこで、わたしは硬直してしまった。お子さんが3人しか思い出せないのだ。チャールズ皇太子、アン王女、アンドリュー王子…えっ、ほかにも!? え〜、あんなに有名な家族なのに、思い出せない!?
 困ったときはすぐ検索である。そして、こちらのエドワード王子を発見 → エドワード (ウェセックス伯爵)

 イギリス王室の男性として伝統的になっている軍での在籍期間が短く、民間の会社を設立し(のちに経営者としては辞任)、結婚を機に女王の三男であるにも関わらず公爵ではなく伯爵を名乗ることになったという、少し庶民的な方のようだ。
 そしてチャールズ皇太子やアンドリュー王子のように世間から騒がれずにいる理由のひとつとしては、恋愛スキャンダルもなく、平穏に「最初の結婚のまま幸せな人生を送っている」…ということもあげられるのではないだろうか。

 エドワード王子さん、忘れていてすみません。これからもお幸せに。
 

ポーランド語

 Duolingoでついにポーランド語にも進出。ウクライナ語とロシア語には似ている単語が多く存在するが、ポーランド語も「ミルク」や「水」など、似ている単語が出てくる。またポーランド語のドラマ「泥の沼」をNetflixで見ているかぎりでは、会話でも tak「ターク」(はい)が出てきて、まるでウクライナ語のようだ。ちなみにロシア語でもタークは出てくる(意味は会話のつなぎに「それなので」的な使い方)ので、音としては、早くもポーランド語が耳になじんでいる。

 ただしとても頻度が高い、たとえば主語のような単語がまったく違うので、発見も多い。学び直すことが増えそう。

 今後の課題は「見て単語の意味はわかるが自分で打てない(各国語のキーボードを入れて切り替えるのは面倒)」ということだ。書けない言語は成長がひとまず止まりそうだが、まだとりあえず「見てわかる」、「聞いてわかる」のほうを充実させてから、その先の心配をしていこう。

何度も作っている菓子で失敗

 バターカステラで失敗した。

 パンならいまでもときおり「こりゃちょっと不味いぞ」というのが出来るのだが、慣れているはずの菓子、しかも基本の基本である「卵の泡立て」で失敗するというのは、予想もしていなかったし、原因もよくわからない。わからないことだらけだが、自信は確実になくした。

 これが、うまく行っているときのバターカステラ。

バターカステラ(焼いた直後)

バターカステラ(冷蔵庫で寝かせてから撮影)

 うまくいかなかったほうの撮影は、もちろんしていない。

 顛末を書いておくと——

 ○ 卵の質は申し分なし。信頼しているお店の卵。
 ○ 泡立てる前に、いつも通りに湯煎して、ある程度は温めた。温度が低かったか?
 ○ 泡立てている最中に、最近は使わなくなっていた古いほうのハンドミキサーだったためか、音が気になった。「今日は、なんだかうるさいなー、早く終わらせたいな」と気が散ったのは事実だが、それほど手を抜いたようにも感じていない。そこそこ、いつもと同じくらいには、泡立てたと思っている。
 ○ 卵の泡立て前に、蜂蜜、バター、ヨーグルトを混ぜて温めておいたが——蜂蜜が容器の最後のほうで固まっていて、足りるかな〜とひやひやした。
 だが、ぎりぎり量は足りたので、残りを引き続き容器ごと湯煎して、次回にそなえた。もしや、最後の固まっていた部分も使ったため、入れすぎたのだろうか。いや、それにしても数グラムくらいの誤差だと思われる。
 ○ 粉を合わせ入れ、バターと蜂蜜などを溶かしておいたものも、いつも通りの手順で入れた。そのときは、それほど卵が緩いとは思えなかった。

 ぜんぶが合わせ終わり、焼き型に上から流し入れた途端…「あ、これぜったいうまくいかない」と直感。急に液の表面にたくさん大きめの気泡が浮いてきて、まるで雰囲気が「こってりしたプリン液」のようなのだ。

 仕方ないので焼いたが、やはり、上半分が「きめの粗いスポンジ」で、下半分が「焼きの足らないパウンドケーキ」みたいになってしまった。ガラス容器なので、焼けたあとでふたたび電子レンジで加熱して生焼けっぽさを改善。そのあとで粗熱が取れてから食べてみたが、味はともかくとして舌触りが悪い。

 何が悪かったのか、よくわからない。
 雑念があったことや、時間に押されながらの作業だったので、認識していない間違いがあったのかもしれない。なにせ先日は、家族も使う普通の用途の塩を、パンをこねたあと小麦粉収納の段ボールに入れて、半日も経ってから「あっ、なぜこんなところに塩が」と首をかしげたのだ。そんなところに入れた記憶もないし、半日も行方不明だったことに気づいていなかった。頭がお疲れのようである。

 次回、期間をあけてから、またバターカステラをやってみようと思う。

再開発は、周辺部にも変化を起こす

 このところ、界隈に大規模な工事が多い。とくにこの5年くらいは、家のすぐ近くまでもが建て替えなどで騒がしい。

 最初は東京オリンピック云々と関連があると思っていた。同時に、一時期よく耳にした住宅エコポイントなるもの(住宅の再建築や大規模リフォームで防火に対応、太陽光発電に対応すると補助金が出るとか出ないとか)と関係あるのかとか、あれこれ考えていたのだが、最近つくづく思うことがある。

 大規模工事や、界隈の建築がつづくと、これだけ好きだった自分の居場所(借家だが快適)から、引っ越ししたく思うことが増えた。気分を変えたい。生活を変えたい。切実に思う。
 そして1年ほどネットで住宅の中古物件、新築物件を見ていて思うのは、もしやみんな同じなのかも、ということである。騒音や再開発が原因で、家を手放している人が多いのではと思うのだ。

 たとえば不動産サイトで「この家は価格がおトクだし間取りも日当たりもいいが、道を挟んで隣で何年も工事やってるから、耐えられなかったんだろうな」、「ああこの家は線路からすぐだ」、「それにしても小学校の真横物件は多いな」とか…けっこう、そういうのがわかってくる。

 工事が終わったころに何も知らずに引っ越してくる人には、よいかもしれない。また小学校だろうと中学校だろうと、平日の昼間に家にいないならあまり関係がない(ただし週末には地元の行事に貸し出すことはあるが)。線路は曜日や時間を選ばないが、真夜中だけは止まる。夜だけ家にいる人ならば、耐えられるかもしれない。

 だが持ち家を好むのは若い共働き夫婦とはかぎらず、高齢な人たちもいる。今後の自分もそうだ。ほかよりやや安いからといって学校の真横や線路のすぐ近くに住めるかといったら、それはまた違う話だ。

 中野駅周辺が再開発の真っ最中で地価が上がり、中野駅からバス利用の距離であるわが家周辺にも「中野駅が便利になるかも」と、人がやってきている。新しい人たちが急激に増えることへの戸惑い、そしていままでの人たちが高齢化などの事情で家を手放して、そこがさらに新築工事となって騒音を生み——さらに新しい人たちがやってくる。

 変わらない街はない。変わらない場所もない。だが、いったん「再開発」ということになると、見えているものだけが変わるのではなく、人も変わっていくのだなと、この数年はほんとうに実感している。