安楽死について

 昨日、きっかけは忘れてしまったのだが、家族と話していた。将来どちらかが、意思の疎通がうまくいかないほどに怪我や病気が悪化して、目を合わせることができたにせよ表情が読めないほどつらそうなときに、延命をやめるのかどうかという話だ。

 声に出せない、意思表示ができない以上は、相手が決めることを尊重したいという話になった。

 日本ではごく一部の例外を除き、医師が手を貸す意味での積極的安楽死は法的リスクがともなう。安楽死に手を貸した医師や、たとえば延命装置の電源を切る家族があれば、かなりの確率で法的に問題となり、訴追される可能性が高い。

 もっともこれは、状況が悪化した最初の最初で、判断できない家族がひとまず延命を頼んでしまった場合に「それをどうやめるか」の問題でもある。だが最初から「延命しません」と断言できる人は、どれほどいるだろうか。事故や病気が予想外であったり突然の場合であればあるほど、動転した状況で「何もしないで」と医師に言える家族は、なかなかないだろう。

 いっぽう、消極的な安楽死というものの話も、伝え聞いたことがある。それは法的に誰かがリスクを負うことは少ないにせよ、わたしが聞いたのは日本の話だが、かなりつらそうな事例だった。消極的とは、病院内で医師が治療をしないことはもちろんだが、なんと食事も取らせず「放置」を選ぶことなのだそうだ(すべての病院がそうであるかどうかは不明)。

 あまりに、つらすぎる。

 最近あちこちで、緩和ケアや、家で静かに時を待つ人の話題を耳にするようになった。苦しくても、知らない人だらけの病院で放置されるよりは、少しでも飲食をしながら家で静かに時を迎えたい/迎えさせたいという考え方が、出てくるのは自然なことだろうと思う。

 さて、こんな話をしていた翌日。

 脳動脈瘤により意識不明の状態がつづく米国の俳優トム・サイズモア氏の家族が、延命治療をやめる方向で決意をしたらしい。米国では州により消極的でも積極的でも安楽死が認められている場合があり、医師が回復の見込みがないことを告げたためもつらい決断だったとのことだった。

 よく知っている俳優さんが、自分たちがこんな話をしていた翌日のニュースになったことで、つらくなった。

 27年前、父は3月のある日の晩に自宅で突然死した。命にかかわるほどではない持病はあったが、まさか亡くなるとは思わないタイミングだった。長患いの果てでなくて、よかった。
 数十年前、母方祖母は自宅でなくなった。病気で寝ていたので、そろそろだと考えた親戚らが交替で出かけて話をし、握手をした。
 義父も突然死。健康状態等においては、実父と近い状況だった。

 わたしも、できれば突然がいい。そんな風に考えているが、本人が選べるわけではないので、思っているということだけは、ここに書いておく。